SSブログ

はじまりのノーレート [雑記]


遠い昔。
フリー雀荘に現れた雀ゴロ風なひとに、
完全に押さえつけられた日。
フリーで負けたくない。
負けてお金を払いたくない。
だから、強くなりたくて
10万円にぎりしめて
その雀ゴロの居場所を
電話帳を使って探しまくり
たどり着いた場所は、
「麻雀教室」
そこで
その雀ゴロは、「先生」と呼ばれていた。
10万円は授業料だ。
この人の麻雀を盗む。
と鼻息荒く、道場やぶりのように飛び込んだ
わたしに、その雀ゴロ風な「先生」は
「ここは、麻雀を勉強する場所。
お金を賭けない。」
と言う。
そのときは、
舐められたものだ。と思った。
負けてもお金を払わなくてもいい
なんて、最高じゃないか。
やりたい放題の牌を切って
「お金が賭かっていれば、とてもじゃないけれど
切れないような牌」を叩き切って
色々なことを試してやる。
そう思っていた。
その後、教室以外の場所でも
その先生は私と絶対にお金を賭けて
打とうとはしなかった。
他の賭場に出かけて、ウーピンで
打つことがあっても、
教室では、おかしくなるくらいの温度で
麻雀を打つ。
ノーレートなのに。
けれど、短期間。
たくさんの「麻雀を大切にする人たち」との時間。
最初は、ノーレートで真剣に打つなんて、
ツキの無駄使い。もったいない、と思っていた。
ノーレートなのに。
ではなく
ノーレートだから。
そして、レート云々の理屈の
およばない深い世界へ。
この教室で、わたしは本当に本当に
麻雀と麻雀以外のたくさんのことを学ぶ。
思えば一瞬の出来事だった。
麻雀は4人で打っている。
「打ってやっている麻雀」などこの世には存在しない。
「打ってもらっている麻雀」だけが、存在しているのだ、と。
そして、
お金が賭かっていない、ということは
お金では責任が取れない、ということだ、と知る。
雀ゴロにしか見えなかった先生が、私とノーレートで
真剣に打ってくださった理由は、
私を舐めている、とかではなく、
「この子は、ノーレートでもちゃんと打てる。」
そう信じてくれていたからだ、と
のちの麻雀との時間の中で、思い知る。
わたしのヨコシマな、麻雀の中の
ほんのちょっぴりしか残っていないであろう
麻雀への本当を、信じてくれた。
だから、現在でも、わたしは麻雀のそばにいる。
そばにいることができる。
幸い同卓してくれるひともいる。
「大切に打つこと。疎かにしないこと。」
その熱量は、現在でも、「教室」の魂として
講師や、生徒さんに受け継がれている、とわたしは思う。
特に、ずっと教室を支えてきた講師さんには、本当に敬服する。
「よくぞ、その熱量を保って貫いてくださっている、」と。
全うしている、そのことの尊さ。
景色は変わっても、温度は変わらない。
賭け麻雀から、ノーレート麻雀へ。
あの日、「わたしの大好きな麻雀」への時間がはじまった。
はじまりの場所。
原点だ。
思えば、
あの、ノーレートなど皆無だった時代。
安くて1000点50円の時代。
この「麻雀教室」にたどり着くことができた奇跡。
わたしは本当に本当に、運がよい。



posted by ゆうゆう at nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

1枚目は鳴かないよ。南3局親番なし ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。