和了批判(なんだ、そのリーチは?) [雑記]
フリーで受けてきた和了批判。
それは、自分の麻雀そのものを全否定するものばかりで
慣れるまでは、これがまあ、なかなか不愉快だった。
一番多い批判が、
「そんなリーチかけやがって」
「よく、そんな待ち和了できたなあ!」
「三色目があるのに!」
これ系の批判。
例えば、ドラが⑧で、⑦に⑨を引いて
⑦⑨、カンチャンの⑧ピンが待ちになったとして、
もちろん即リーチ。
⑦という尖牌へのくっつきテンパイ、ということもあるけれど、
値段や、場の状況を鑑みてリーチ。
つもる。
「よく、そんな待ちでリーチを打てるね!
ドラ待ちのカンチャン?
和了できるなんて、本当ついているね。」
ばりぞうごん
ツモっていうのは、その牌が何であっても牌山に
寝てさえいれば、和了出来る。
ダイレクトに⑧をツモ和了できるのであれば、
それでよい。
最終形でテンパイの意味も十分であれば
リーチを打たないほうがおかしい。
両面待ちへ、変化させてからの和了、
というのは両面待ちに変化させてからの和了に
意味がある場合のみだ。
愚形にだって、愚形の意味がある。
だいたい愚形って言葉もおかしい。
他面待ち>愚形
が当たり前になってることがおかしい。
場の状況にあった愚形のほうが、
手牌都合の他面待ちよりはるかに価値がある。
麻雀は、きれいな待ちを目指すものではなくて
場の状況にあった打牌を重ねるものだから。
批判を受けても
「そうですか。これは、リーチですよ。」
とだけ返す。
他人の和了の意味を考えない相手と麻雀のはなしは
したくもないし、どうせ言葉も届かない。
でも、
「どうしてリーチを打ったの?」
と、訊ねられたなら
そこから、世界はひろがる。
つかさ会には、フリーで出会った人も多いけれど、
その全ての人に共通しているのは、
「訊ねてきてくれた」し、「質問してくれた」こと。
和了の形だけをみて、批判することなく
その和了を認めたうえで、訊ねてくれた。
他人の麻雀をおろそかにしない、そういう人間だ、と思った。
だから、何年たっても、彼らとは「麻雀のはなし」ができる。
他人の麻雀を批判することから入る人間とは、
何も共有できないと、思うのだ。
和了批判の心理としては、
自分は、両面待ちのテンパイまで待つ。
なのに、なんで、こんなカンチャン待ちでリーチを
打つのだろう?許せない。
しかもドラ待ちだって?
とか、思っているのだろう。
余計なお世話である。
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